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「空白の1日」 江川騒動

2011.12.10 MSN [阪神タイガース事件史]

対岸の火事

昭和53年(1978年)11月21日、「事件」はドラフト会議の前日に起こった。

前年にクラウンライター・ライオンズから1位で指名され、入団を拒否して"浪人"生活していた江川卓(法大−作新学院職員)と巨人が、野球協約上の「空白の1日」を使って電撃契約を交わした。いわゆる『江川騒動』の勃発(ぼっぱつ)である。

この一報が大阪・梅田のサンケイスポーツ編集局にもたらされたとき、トラ番記者たちは大喝采(かっさい)をあげた。

「おおぅ、巨人がやってくれよったで。しばらく騒ぎは東京や。やっと休める」

トラ番キャップ左方直樹の第一声である。

言葉通り、当時のトラ番記者たちは不眠不休で働き詰めだった。10月に「ブルドーザー」の異名をとった小津正次郎が球団社長に就任するや、その年、41勝80敗9分けの球団史上最低勝率・339で最下位となり、辞任した後藤次男監督の後任としてドン・ブレイザー監督を誕生させた。そして、"血の入れ替え"を断行した。

当時、年齢とともに動きの緩慢になっていたミスタータイガース・田淵幸一を「チームのためにも本人のためにも」と西武へ放出したのである。

田淵へのトレード通告は11月15日の深夜、大阪・梅田のホテル阪神の一室で行われた。フロアは異様なムードに包まれていた。何人もの記者がドアに耳をくっつけている。床に腹這(はらば)いになりドアの下のわずかなすき間から中の様子を伺おうとしている記者もいた。

「左方さん、各社の人たちがドアに耳をつけて聴いてますよ。ウチもやらへんのですか?」

「大丈夫や、何も聞こえん。実証済みや。おっ、夜食を届けてくれたんか。ありがとさん」

実はこの時、私はまだ記者になっていなかった。翌54年4月にサンケイスポーツに入社し「トラ番」を拝命するのはその年の12月。学生アルバイトとして記者たちの手伝いに走り回っていた。

涙を流す田淵に小津社長は「君が無事に選手生活を終えたときに呼び戻す用意がある」と説得した。このトレードで阪神からは田淵とともに古沢憲司が、西武からは竹之内雅史、若菜嘉晴、真弓明信、竹田和史が入団した。阪神にとっては昭和51年の江夏豊、望月充−江本孟紀、池内豊、島野育夫、上田卓三、長谷川勉(南海)以来の大型トレードになった。

小津の魔法に翻弄(ほんろう)され続けたトラ番記者にとって、東で起こった「江川騒動」はこの時点ではまだ"朗報"だったのである。


飛び火した騒動

巨人の横暴を許すな! 「空白の1日」から一夜明けた53年11月22日。ドラフト会場となった東京・九段下の「ホテルグランドパレス」は異様な熱気に包まれていた。

「ウチは野球機構のルールを守っていくだけ。もちろん江川君を1位で指名する」

小津正次郎球団社長も巨人との真っ向勝負の姿勢を見せた。

巨人は首脳陣全員がボイコットし「会議の無効」を連盟に提訴。もちろん鈴木竜二セ・リーグ会長は即座に却下し、午前10時、会議は予定通り始まった。

「第1回選択選手!」。いつになくパンチョこと伊東一雄パ・リーグ広報部長の甲高い声が響く。

 「南海、江川卓…」おおぅ−という歓声が起こる。巨人の横暴に対し敢然と立ち向かい、江川を1位で指名した球団は南海に続き、ロッテ、阪神、近鉄の4球団。そしていよいよ抽選。だが、何かがいつもと違っていた。運命の抽選箱に腕を入れる各球団の代表たちの顔が異様にこわばっていた。

どの球団も本心は当たりたくなかった。ヘタに当たりを引いてしまえば大騒動の渦に飲み込まれてしまう。この時点では連盟や野球機構そして世論も"味方"についているが、盟主・巨人相手の喧嘩(けんか)はやはりしたくない−が本音だった。

誰もが封筒を開けようとしない。早く誰か手を挙げてくれといわんばかり。見たくない「選択権決定」の5文字…。長い沈黙を破り、そっと右手を挙げたのは2番目に封筒を引いた阪神の岡崎義人球団代表だった。

「思わず、しもたぁ!と声が出た。この時がワシにとって初めての抽選やった。それやのに、ほんまに当たるなと願ってくじを引いたんや」。後年、球団社長に就任した岡崎代表はこう回想した。


球界を巻き込んで

またしても不眠不休の取材合戦が始まった。予想通り『江川騒動』は国会でも取り上げられるなど社会的な問題に発展した。法律論を持ち出し江川との契約の正当性を主張する巨人。そして1カ月後の12月21日、ついに金子鋭コミッショナーの裁定が下された。

「野球協約と国家の法律とはわけが違う。野球組織の秩序を維持し、野球の繁栄を招来するために設けられた自治的規範である。すべてを法律で片づけるなら、野球組織に野球協約は必要ない」

まさに巨人全面敗訴の裁定だった。当然、各球団の理事たちはこのコミッショナー裁定を拍手で支持した。ところがである−。

翌22日午後3時、東京・芝の「東京グランドホテル」で開かれたプロ野球実行委員会の席で、金子コミッショナーが突如、こう切り出した。

「これから申し上げることは、昨日の裁定の続きだと思って聞いてほしい」

各委員たちに緊張がはしる。

「江川君の指名権を取った阪神と巨人との間でトレードを行う。4月7日の開幕を待ったのでは遅すぎるので、2月1日のキャンプインまでにトレードを実現させる。このことはあくまで特例である」

委員会は騒然となった。というよりみなわが耳を疑った。本当にこれが同じ人物から出た言葉なのか…と。わずか1日での豹変(ひょうへん)。180度転換した発言にすぐさま異議をとなえたのは、かつて「名将」「知将」の名をほしいままにした日本ハムの三原脩球団社長だった。

「せっかく立派な裁定を下されたのですから、トレードの時期も協約通り開幕(4月7日)以降にしたらいかがですか。協約を破れば、この場の決着はついても、あとは世間の非難を受けることになるのではないですか」

「ドロはオレ一人がかぶるからいい」

ぶ然とした表情で答えた金子コミッショナーに三原はなおも食い下がった。

「ドロをかぶるのは球界全体です!」

こんどは金子コミッショナーが席を立った。そしてドーンと机をたたき

「すべてワシの責任だ!」と叫んだ。

委員会は静まりかえった。そしてある委員が聞いた。

「いまのコミッショナーの発言は協約に定められているところの"指令"なのでしょうか?」

「そう受け止めてもらって結構です」。"指令"となればもう議論の余地はなかった。

数日後、セパ両リーグの会長と話し合った金子コミッショナーは"指令"から強制権のない"強い要望"にトーンダウンしたが、流行語にもなった「強い要望」で江川騒動は決着の方向へと向かった。

あくまで江川との契約は有効−とあれほどかたくなに主張していた巨人が5日後の27日にあっさりと前言を撤回。「江川との契約を白紙に戻します」とセ・リーグ会長に連絡してきた。

明けて昭和54年1月31日、阪神が江川と契約を交わし、翌2月1日に東京・大手町の読売新聞東京本社8階の会議室で、江川と小林両投手のトレードが発表された。午前0時15分、またしても"真夜中の発表"となった。

(総合企画室長 田所龍一)

■■多くの謎…「墓場まで持って行く」■■

世間を揺るがした「江川騒動」は謎が多い。

(1)なぜ、「空白の1日」なのか

当時のプロ野球協約には「交渉権の喪失と再選択」として、次のようなことが取り決められていた。「球団が選択した選手と、翌年の選択会議開催日の前々日までに選手契約を締結し、支配下選手の公示をすることができなかった場合、球団はその選手に対する選手契約締結交渉権を喪失するとともに、以後の選択会議で再びその選手を選択することができない」

したがってクラウンライターの江川への交渉権は11月20日で消滅。22日のドラフト会議まで、協約上1日の空白が生まれたのである。もちろん、鈴木竜二セ・リーグ会長は「この1日は各球団が新人選択の方針を樹立する余裕を与えるもので、この1日を利用して他球団が選手契約を締結できるなどとはうたっていない」と、巨人の選手登録申請を却下した。

(2)金子コミッショナーはなぜ、わずか1日で豹変したのか

「巨人の正力亨オーナーの新リーグ構想に、このままでは球界がつぶれてしまうと危機感をもった」「大物政治家が陰で動いた」「トレード以外にも何か裏取引があったのでは」と当時は、いろんなうわさが飛び交ったが、この件に関して関係者の誰もが固く口を閉ざした。「しゃべったら球界がひっくりかえるからな。墓場まで持って行くさ」と小津球団社長も一切しゃべらなかった。

(3)なぜ、江川の交換要員が小林繁になったのか

実は、阪神が交換要員として指名したのは西本聖だった。当時の巨人の投手陣は年齢とともに力は衰えたとはいえ、堀内、新浦が健在。その年、13勝をマークし胴上げ投手になった小林が新エースとして育っていた。そんな中で西本はわずか4勝の4番手投手。"怪物"とはいえまだ海の物とも山の物とも分からない江川とでは、西本クラスが釣り合っていると阪神側は判断したのだろう。ところが巨人は小林を出してきたのだ。

「江川の巨人移籍は4月7日まで認めない」という実行委員会の決定により、江川は協約上、4月6日までは阪神の"選手"だった。入団発表もなければ、選手との接触もない。だが、阪神はそんな江川のユニホームをちゃんと作っていた。背番号「3」。もちろん1度も袖を通していない。

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