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拓殖大学総長・渡辺利夫 危うきかな「華夷秩序」への備え

2013.7.11 MSN[正論]

6月7、8の2日間にわたり米中首脳会談が開かれた。この会談で習近平・中国国家主席は、「太平洋には米中両大国を受け容(い)れるに十分な広さの空間がある」と述べ、「新型の大国関係」を米中で構築しようと提案した。


尊大な国際秩序観念の伝統

振り返れば、2007年5月に訪中したキーティング米太平洋軍司令官(当時)が、中国海軍幹部から、「ハワイを基点として米中が太平洋を分割統治することに両国間で合意ができないか」と提案され、面食らわされるという場面があった。08年3月の上院軍事委員会公聴会での同氏の証言によって明らかにされた事実だが、この証言の模様はユーチューブで今でも公開されている。

習氏は、国家主席としての初訪米で、オバマ大統領を前に、中国には米国と同格の覇権力があることを堂々と顕示してみせたのである。「日本などという存在は取るに足りない。米中で都合のいいように太平洋の秩序を仕切っていこうではないか」というのが、その言外の意味にちがいない。

会談では尖閣問題の議論に長時間が費やされた。オバマ氏は「日本が米国の同盟国であることを中国は認識せよ、中国は東シナ海での軍事的冒険を自重すべし」と主張した。これに対して、習氏が、「国家主権と領土の統一を断固として守る」というのが中国の不変の原則であると主張して譲ることはなかった。中国の太平洋進出への戦略的意思に揺らぎがないことを米大統領の頭に「刻印」させることが今回の会談に寄せる中国側の最大の意図だったのだが、この意図は成功したのであろう。

習氏の発言は、いかにも尊大である。しかし、中国の国際秩序観念は元来が尊大であり、国内異民族や周辺諸国がこの観念によっていかに苦しめられてきたか、今またこの尊大な観念が周辺海域で現実化しようとしていることに、われわれは強い警戒の念を抱かねばならない。


中国の「理」怜悧に見据えよ

新たに登場した習氏が繁(しげ)く用いるキーワードが「中華民族の偉大なる復興」だ。欧米の産業革命以前に出現し世界を圧倒した王朝、大清帝国への回帰願望の表出である。中華の礼式に服させ、見返りに王位を与えてその王に領土と領民の統治を委ねるという、中国の王朝に伝統的な国際秩序観念が冊封(さくほう)体制である。中華を中心として同心円的に広がり周縁に位置する人種や民族ほど、文明が低いとみなす価値観念が華夷秩序である。

王朝はいくたびか変転したものの、古来、連綿として継承されてきた冊封・華夷秩序観念が消失することはなかろう。経済力と軍事力の強化を背景に、現在、この観念は一段と強化されつつあるとみなければならない。

海洋政策研究財団の秋元一峰氏の研究によれば、中華民国政府が東沙・西沙・中沙・南沙諸島を囲い込んで東南アジア海域のすべてを自国領とした「南海島嶼(とうしょ)地図」を発表したのが1948年であり、この地図は中華人民共和国に引き継がれたという。92年2月制定の「領海法」(中華人民共和国領海及び隣接区域法)という国内法の原図がこれである。領海法なる国内法に、国際法上の意味は一切ない。




拓殖大学総長・渡辺利夫氏の論調に対して、我が意を得たりと共感を覚える人達がどれ位いるのか知りたいものである。日本は太平洋戦争で負けて二度と立ち上がれないように日本人の侍精神、武士道精神を骨抜きにされてしまった。

そんなエピソードとして有名なのが、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とある、広島の平和公園の碑です。昭和49年に帰還された小野田少尉がそれを見て、涙を流しながら「我々の戦いは過ちだったのか・・・」と嘆いたそうです。

日米安保条約は日本が戦わなくても米国が代わりに戦ってくれるというものではありません。憲法の戦争放棄という言葉を勘違いさせられている事を疑いもしない人々の何と多いことか・・・

専守防衛というのは、敵が攻めて来た時には戦う! という意味を含んでいるのです。尖閣問題は今正にその事を突きつけられているのです。平和は世界人類共通の願いです。しかし、国際社会、人間社会というのは意に反した争いが発生するものです。

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