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テストレポート2 PIN-Reference1、SP-Basic1

ケーブルレポートを書くに当たって

貝崎さんからローゼンクランツの製品をレポートするよう依頼を受けた時、「決してやらせのないように、誉めることばかりではなく、正直に感じたことだけを書いて欲しい」と頼まれました。貝崎さんの直球ストレートな普段の言動や生き様から、そう言われるのは当然のことだと思います。

私も思ったことは、隠し事なく何事も正直に表現するのがモットーです。私のホームページには実名も顔写真も、また恥ずべき過去についてもありまののに書いています。このコーナーも本当は実名で書きたかったのですが、貝崎さんから「他の人たちはみなイニシャルにしているから」ということで、イニシャルにしています。

別に悪いことをしているのではないのですから、名前や顔写真がネットに出るのはまったく恥ずかしくありません。それより貝崎さんに我がボロ家の写真を撮られ、清貧という表現とともにホームページにアップされたことの方がよっぽど恥ずかしいのですが・・・。

レポートを書くにあたって考えたことが二つあります。ひとつは、音というものをどのように現実感を持って言葉で表現するかということです。音を聴き、そこで感じたものを言語という別の媒体に変換するのはとても難しい作業です。自分の感覚を鋭敏に研ぎ澄まし、そこで得たものを過去の経験から何らかの言葉に例えて表現するというのは、己の見識と力量を問われます。

もうひとつは、感じたものを正直に言葉で表現できたとしても、それが読み手にはそのまま伝わらないのではないかということです。

人には常識、悪く言えば思い込みのようなものが強くあります。ローゼンクランツの人気商品である、スピーカーとスピーカーケーブルの間に入れるスピーカーアタッチメントを、いくら多くの人が絶賛したとしても、普通の人はオーディオ的常識(思い込み)が邪魔をして、その評価を素直には受け入れることはできないと思います。

私が先のレポートに書いた、2,980円の多用途プレーヤーと二万数千円のアンプで、RK-AL12/Gen2からこれまで聴いたこともないような自然な風合いの音が再現されるというのも同様でしょう。普通ではそんなことは考えられません。

けれどもこれは致し方のない問題ですね。ただ正直に感じたことを書き、その文章の中から真意をくみ取ってもらうしかありません。


再びRK-AL12/Gen2の感想

このスピーカーの音を毎日聴き続けていて、その自然な音の佇まいにすっかり魅了されてしまいました。人の声でもギターでもピアノでも、様々なアコースティク楽器でも電子楽器でも、その楽器本来の持つ音色とはこんなものだったのかと新たな発見の連続です。

本当に感じたことをそのまま書きます。たぶん五十代以上の方にしか分からないでしょうが、大昔モスラという怪獣映画があり、その中で双子の歌手であるザ・ピーナッツがこびと役で登場し、二人声を合わせて、「私たちのモスラを返してください!」とか「モスラ〜よ、モスラ〜♪」と可愛い声で歌を歌ったりしていました。このスピーカーから出る人の声は本当にリアルで、まるでスピーカーの陰に小さな人が隠れているような錯覚に陥り、自然とこのモスラのザ・ピーナッツの姿が頭に浮かぶのです。

こんなに素晴しい音でも聴き続けているうちにだんだんと感動は薄れ、今ではこれが当たり前に感じられるようになりました。これはごく自然なものの見方(聴き方)だと思います。自然の理に則し、音の響きをストレートに空気中に放出するこのスピーカーが本来のあるべき姿であり、これまでのスピーカーの、力や物量で音をねじ伏せるような手法はきわめて不自然です。たとえそれが圧倒的大多数であったとしてもです。

サイズの合わないごわごわの服でも、それしか着たことがなければ、それが当たり前のように思えます。けれどいったん体にピッタリの服の着心地を知ってしまえば、最初はそれに感動しても、しだいにそれが当たり前に思え、かえって以前のごわごわの服がおかしかったのだということに気づくようになります。これが今の私の心境です。

先にこのスピーカーは上善如水だと書きました。本当に自然のありのままを表現する理想的なものとは、その存在を強く主張するのではなく、水や空気のように、その存在を意識の外に追いやってしまうものなのだと思います。


相対の世界

試聴レポートを読んでいただく上で是非とも心得ていただきたいことがあります。それは私のレポートでも、また雑誌の評論家の記事であったとしても、そのレポートに於ける評価は厳密にはすべて相対的なものであり、絶対的なものではないということです。

ある人がある時、あるシステムの中でその製品を使った評価、それがすべての人や場合に当てはまるとは限りません。アンプの出力が大きいとか、スピーカーの高音が伸びるといった物理特性はある程度の客観評価が可能ですが、音楽というバランスの中に存在するものの評価は、周りの環境が異なれば、そこから受け取る印象が一変してしまう可能性があります。

『すべてのものは相対である』というのは、私の学ぶ東洋思想の真理のひとつですが、このことをローゼンクランツの音を比較試聴することによって、一段深く理解することができました。

ミクロな世界を扱う物理学の世界には、観測者効果という言葉があります。観測するという行為そのものが現象に影響を与え、結果に変化を起させてしまうのです。このことはこれから幅広く知られるようになると思います。


PIN-Reference1 ・・・ バランスを知る

部屋を片付け、ステレオのセッティングを今一度確認し、すべての機器をクロスで磨き上げた上で最初の製品テストであるピンケーブルPIN-Reference1(0.9kaiser)の試聴に入ります。

今使っているのは昔ビデオデッキを買った時に付いていたピンケーブルで、ごく普通のどこにでもあるものです。ビデオ用ですので、映像用の黄色の端子だけが余って宙を浮いた状態になっています。

ピンケーブルを替える前から期待に胸が躍ります。まるで遠距離恋愛の恋人と再会するようなこの気持ち、オーディオマニアだったら誰にでも理解できますね。

けれどピンケーブルを付け替え音を聴いたその瞬間、大きな戸惑いを感じました。「えっ・・・、音が全然よくなっていない・・・(汗)」。驚くという以上に困ったというのが正直なその時の感想です。

もしかしてケーブルの方向性を間違えたのか、あるいはアンプの別の端子に差してしまったのでは・・・、いろいろ考え調べてみましたが、どうも結線はきちんと行われているようです。

理想的な導体を使った高価なローゼンクランツのピンケーブルで、こんな期待はずれの音が出るとは考えてもみませんでした。これまで何度も自分のステレオや貝崎さんの店舗のステレオでローゼンクランツの製品、結束バンドやネジ等の比較試聴を行ってきましたが、いいものを使って音がいい方向に変化しないというのは初めての経験です。

厳密に音に耳を傾けてみると、音そのものは切れがよく透明度も上がり、確実によくはなっているようなのですが、肝心の音楽として私の胸に届く音は、なんとも違和感のある居心地の悪いものです。全体のバランスが乱れ、ほんの少しよくなった音の要素がすべて現在持っている弱点を露呈する方へと向かっています。

また映画のたとえ話で恐縮ですが、この時には名画タイタニックの一場面を思い出しました。三等船室でいつもみんなで楽しく大騒ぎしているデカプリオが、一等船室の豪華で格式張ったホールに迎え入れられ、それに戸惑っているシーンです。

音に曇りがあったとしても、それはそれで調和を持って受け入れていたら別段問題はないのです。それを無理に改善しようとし、一部分だけ突出した優等生を加えると、全体の和が崩れてしまいます。特にそれが入り口部分であったなら、ボトルネック現象となって悪い部分が顕在化してくるのでしょう。貝崎さんのいつも言われている「全体のバランス」ということが、初めて体で理解できました。


SP-Basic1 ・・・ 足並みを揃える

最初の予定では、ピンケーブルPIN-Reference1だけを入れた状態でしばらく聴こうと思っていたのですが、この音ではとても長時間聴くことができません。ステレオから「このバランスの悪い状態をなんとかしてくれ!」という悲鳴に近いメッセージを感じます。

そこで急遽三種類お預かりしているスピーカーケーブルから、最も安価であるSP-Basic1(2.7kaiser) を取り付けることにしました。

現在使っているスピーカーケーブルは、長さ3メートルのACROTEC(アクロテック)6N-S1040で99.9999%Cuと書かれています。端末はY端子仕上げになっていて、見た目も太さもSP-Basic1より貫禄があります。

SP-Basic1を取り付けてみると、音はさきほどと同じぐらいほんの少し向上しました。けれど今度はその音の向上が音楽性の向上と完全にベクトルをひとつにし、音楽の感動、音楽を聴く楽しみに一気に直結してきます。

なんでこんなにも急に音楽性が向上するのか、それはSP-Basic1単独の能力ではなく、これまで埋もれていたPIN-Reference1の力をも同時に開花させたからだと考えられます。

これも貝崎さんがよく言われる言葉ですが、「足並みを揃える」という表現が、今の音にはピッタリと当てはまります。透明な音場の中、音がひとつひとつ明瞭に分離するだけではなく、その音同士が音楽を構成する要素として互いに呼応しているのが感じら、それらが足並みを揃えてリズムを刻み、音を聴いているだけで自然と曲に合わせて体がスウィングしてきます。

バランスが整うということは、音の向上以上に音楽性の向上をもたらすものです。その結果、これまで聴くことのできなかった "音楽の中の音" がよく耳に入るようになってきます。
「この歌手は、この部分でため息をつくように発声していたのか・・・」
「こんなところに細かいリズム楽器が入っていたんだな・・・」
そんな音楽の微細な部分まで意識しなくても耳に入ってくるようになりました。
これは音楽の鮮度が向上したと言ってもいいと思います。実に端正で、実に凛々(りり)しい音です。


大きなバランス

SP-Basic1はPIN-Reference1と比べると一段下のクラスのケーブルですが、それでもアクロテックのスピーカーケーブルと比べると、二つは抜群にバランスが整っているということでしょう。そのバランスのよさが「足並みを揃える」 という結果につながったと考えられます。

東洋思想で考えると、この時空にあるものはすべてバランスを保った上で構成されています。人体、その中の細胞、原子、素粒子、そしてマクロの世界の太陽系、銀河系、すべてです。

そしてそのバランスの取れた世界の中でも、よりマクロの世界から順にバランスを整えていくのが自然の理なのだと考えられます。いくら優等生であったとしても、突出した能力を持つピンケーブルは、時と場合によっては全体のバランスを崩すことになりかねません。

またこれは私の大胆な推測ですが、ビッグバンで誕生し、膨張を続けるこの宇宙は膨張、拡散といった性質を強く持ち、だからこそ空気中に音を拡散する役割を持つスピーカーがステレオ全体の音の支配力を強く持ち、キャラクターを決定づけるのではないかと考えられます。

母親の胎内で最も早く発達し、死の直前まで機能し、己の内(骨導)にも外(気導)にもアンテナを伸ばしている聴感覚、ここから感じられる世界が深い真理を体現しているのはごく自然なことです。

途中中休みがあったものの、オーディオマニアとして音に心を寄せ続けて約四十年、今再び、そのことに喜びを感じています。

N.S(ヨガナンダ) http://yogananda.cc


N.S(ヨガナンダ)氏のレポートに貝崎が補足の説明を述べてみたいと思います。彼には以下のようにケーブルの品目明細をメールに書いて送っただけでした。

最初に聴いて貰うのはローゼンクランツの手作りのケーブルではなく、機械で作ったMusic Spiritのケーブルにしました。人間の手加減がケーブルの音にそのまま現れるアナログライクな表現との差を聴いて欲しかったのです。

 ●発送商品内容
 ■SP-Basic1(\31,500)
 ■SP-Reference1(\93,450)
 ■SP-Maximum/#340(オールマイティー型自動制御ケーブル)
 \157,500(近日発売予定)
 ■PIN-Reference1(\52,500)
 ■AC-Add On(電源汚染処理用継ぎ足しケーブル)
 \37,800
 アンプ、CD、テーブルタップ、冷蔵庫、パソコン、等何にでも使えます。

今回のレポートで重要な点は、性能がうんと優れたピンケーブルを入れた途端に、聴くに耐えなくなってしまったという以下の内容です。

厳密に音に耳を傾けてみると、音そのものは切れがよく透明度も上がり、確実によくはなっているようなのですが、肝心の音楽として私の胸に届く音は、なんとも違和感のある居心地の悪いものです。

しかし、大半のケースは、どちらの音が良いか? そして、高価な買い物をするのだから失敗をしない為にも集中して聴かなくては! というところに意識が過剰なほどに働き、全体の音楽の流れや調和を聞く事を忘れ、顕微鏡のフォーカスを合わす事だけに専念するようなモードに脳神経のスイッチが入ってしまうのです。

この状態こそが、「木を見て森を見ず」なのです。

次にスピーカーケーブルを同じ思想で作られたSP-Basic1にした時の感想は次のように述べられています。

「足並みを揃える」という表現が、今の音にはピッタリと当てはまります。透明な音場の中、音がひとつひとつ明瞭に分離するだけではなく、その音同士が音楽を構成する要素として互いに呼応しているのが感じら、それらが足並みを揃えてリズムを刻み、音を聴いているだけで自然と曲に合わせて体がスウィングしてきます。

技術的な説明をすると、0.9kaiserと2.7kaiserが3倍長である事と、構造面で両者の捻りピッチが52.5ミリである事が、長さや、周期の面で揃っているから音楽の足並みの揃った感じが際立って出て来たのです。これは、譜面上における1小節に何拍打つかのリズムの話と符合する訳です。

この2回目の時のように、オーディオ的にも音楽的にも良くなった場合は、殆どのケースで判断を誤る事はありません。要するにどんな場合であっても、音の良し悪しが音楽性を超える事があってはならないのです。これは、オーディオの鉄則中の鉄則です。

・音楽性が高くなると、音の良さは必ずリンクするが
 音の良し悪しに、音楽性はリンクするものではない

・求めるのは高性能な音でなく、芸術性ある音楽の再現である

カイザーサウンド
貝崎静雄

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