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ライナーノーツ(湯川れい子から見た長渕剛)




 今回開発したカーディナルスピカー「The Maestro」の音の最終確認の段階でボーカル物を色々と聴いていた時でした。長渕剛の「Captain of the ship」を聴きながら、滅多に読まないライナーノーツに目を落としました。

 冒頭からその文面に釘付けにさせられました。誰が書いたのか興味を持った時に途中で「私は女だから」と出てきました。女性で男の深層心理をこんなに汲み取れるのかと驚きました。読むのを中断しページをめくると湯川れい子さんでした。さすがです。


 誰かに読んで欲しい!

 この価値ある人間観察力を・・・

 そう思ったので、そっくり書き写してみました


 日本人には、長渕剛が好きという人と、嫌いという人の二種類がいる。長渕なんて知らないという人は、ほとんど通常の市民生活を送っていない人だから、この際あまり関係ない。

 好きだ、という人には、なぜ?と聞く必要はない。皆、「そんなあなたになりたくて、そんなあなたになれなくて」、自分自身の内に、じっと剛の誠実な優しさと生きざまを、熱く見つめている人たちだからだ。

 嫌いだ、という人の反応は、それに較べると千差万別の様相を呈する。「暗い」「押しつけがましい」「ヤクザっぽい」「暴力的だ」「粗暴な感じがする」「噛みつくような歌い方がイヤ」「ヒゲが不潔ったらしい」などなど。

 私の周囲にもアンチ長渕派は沢山いる。人気のあるスーパー・スターほど、世の中の反応は二分するものだから、身びいきに怒るほどのことではない。

 でも、嫌いな人に、その理由を深くたずねていくと、結局は「あまり、ちゃんと聞いたことが無いから良く解らない」というところに行きつく。

 好きでもないものを、熱心にCDを買ってまで聞くはずはないのだから、「嫌い」の根拠は、ほとんどの場合、イメージと、勝手な思い込みと、誤解に基づいているということなのだろう。

 自分自身の弱さや、ふがいなさに目を向けることもなく、日常を流されるままに生きている人にとっては、剛のような人はウザったく映るのかもしれない。

 ジュリアナ東京のお立ち台に立って踊っている女の子と、アルマーニ風のスーツを着て、その女たちを呆けたように見上げている男たちと、その姿に執拗にカメラを向けるジャーナリストほど、剛の歌声が似合わないものはないだろうから・・・・・・と考えただけで、思わずクスッと笑ってしまう。

 自分の言葉で、これほどのスケールの大きな歌を、これほどの誠実さで歌ってくれるアーティストは、少なくともこの日本には、剛を置いて他にいない。

 外国にはいるのか、と聞かれたら、「そうねぇ、ブルース・スプリングスティーンとか、スティングとか、コリー・ハートとか・・・・・・」と、私の好きな人達の名前が幾つか上がるけど、スケールという点になると、今回の「ガンジス」が持っている物に太刀打ち出来る人は、ちょっといないかもしれない、と思う。(業界からの反論があれば、ぜひどうぞ)

 果たして「JAPAN」を越えるアルバムは出来るのだろうか、と思って来たけれど届けられた音を聞いて、泣いた。2度、3度、聞くたびに、深く胸をえぐられて泣いてしまった。ここまで自分の限界にナイフを突きつけて、生きるという作業に真剣にならなくたって、明日になればまた太陽の恵みはあるのに。

 36才、2児の父、人のずるさが見えると同時に、その人の痛みも見えてくる、むずかしい年頃でもある。もう昔のように、ストレートには、精神的にも肉体的にも怒れない。解ったふりの一つでもしてやりたくなるし、月並みな幸せにドップリはまって暮らすことだって選べるのに---。

 見回してみれば、尾崎豊は自分も他人も愛し切れず、人生に踏み散らされて死んでしまったし、あの人もこの人も、ポッテリと太った中年になって、シーンからは消えて行ってしまった。

 それなのに剛は今も、ああいう自分になりたくて、こういう自分が歯がゆくて、自信と、不安と、プライドと、コンプレックスと、情愛と、欲望と、無心と、野心のはざまで、ズタボロになりながらも自分に噛みつき、昨日に爪を立て、明日に牙をむいて、弱虫の私たちを背中でかばおうとする。今の時代、ここまで男っぽかったら、生きづらいだろうと、同情を禁じ得ない。

 男の中の女性性、女の中の男性性の開放なんてことに興味がある私は、講演会の壇上で、「もうひたすら前へ前へ進もうとする尖がった男性性なんてものは、生産と開発に向かうだけだから、地球のためになりません。これからは再生の時代、女性性と母性の時代です。だから男の人も、自分の中の女性性を、もっと解放して下さい」なんて呼びかけたりしている。

 そのことは、剛のファンであることと矛盾するのだろうか。

 確かに、「もっと銭が欲しい。いかした女も、でっかい家も欲しい」などと、よじれた声で叫ばれると、オーッと、なんて思うけれど、剛が求めている物は、もっともっとデカいということに、やがて気づかされる。

 欲しい、欲しい、欲しいのカタマリが、情念の鬼と化して、生きて、生きて、生きてたどりつこうとしている先は、なんと限りない慈悲の世界だと解ってしまうからだ。

 「そんなあなたになりたくて、そんなあなたになれなくて」と、剛が涙目で希求する向こうにある物は、ひたすら母性であり、あまねき愛、男も女も、全ての欲望を昇華した、コズミックな曼荼羅世界に微笑む未来仏、弥勒菩薩の慈悲の心なのだから。

 だから、強烈な自我も自意識も持った女である私としては、「愛しているから、心配しないで」とか、「夜明け前の光を持って、お前に会いに行こう」だとか言われると、ポロポロ涙をこぼして聞きながらも、「冗談じゃないわよ。女だからって、待ってばかりはいられない。私だって、私という船のキャップテンなんだから」と、しかめっ面のひとつもしたくなるのだけれど、その顔の醜さを、すぐに恥じてしまう。

 母性のないところには、人類の未来はおろか、地球の未来さえ無いのだと、剛は言っているんだものね。この一見攻撃的な男性性の裏にひそむ慈愛の心の優しさに打たれるのは、ブルース・スプリングスティーンの歌を聞く時と同じだと、私は思っている。
 
 私が剛さんを知ったのは、息子とブルースを通してだったのだけれど、去年8月のデトロイトでのブルースの公演を見に行った時、日本車叩きの本拠地のステージで、なんとブルースは2万人の客席に向かって「MY FRIEND FROM JAPAN,TUYOSHI NAGABUCHI!!」と叫んでくれたのだった。

 嬉しかったなあ、あれは。思わずジーンと涙がこみ上げて来て、困った。そして、「もし貴方が英語圏に生まれていたら、ブルースになっていたかも知れないんだから」と私が言った時の剛の言葉が、また凄かった。「違うよ、湯川さん。やっぱり世界を相手にしている奴はデカイよ」と。それが65,000人のドームのチケットを、41分で売り切った直後の男の言葉だったことに、私はまた感動してしまったのだった。

 今回、のっけからロイ・ビタンのダウン・トゥ・アースなブルース・ピアノが聞こえてアルバムが始った時、ゾクゾクと鳥肌が立ったのは、あのデトロイトの夜を思い出したからでもあった。

 ブルースのE・ストリート・バンドにあって、1974年から終始ブルースと行動を共にして来たキーボード奏者であり、アレンジャーとしても、バンドリーダーとしても最も重要な人物が、この人である。ピーター・ガブリエルやダイアー・ストレイツ、デヴイッド。ボウイなどのビッグ・アーティストのレコーディングに参加している他、最近ではパティー・スマイスの久々のヒットアルバムをプロデュースして話題を呼んでいる。

 長渕剛とは「JAPAN」いらいの付き合いだから、ファンの皆さんの方がよくご存知だろう。同じく今回も、前回ロイと一緒に顔を揃えていたギターのティム・ピアース、ベースのジョン・ピアース、それにドラムスのケニー・アーノフの名前が見える。

 ジョンとティムは、あまりにも有名なL・Aのスタジオミュージシャンで、ボンジョヴィやベリンダ・カーライル、シェール、テレンス・トレント・ダービーの新作など、数え切れない話題のアルバムに参加しているし、ドラムスのケニー・アーノフも、ジョン・(元クーガー)・メレンキャンプのアルバムに全面的に参加している凄腕だ。

 しかも、奇遇というか、奇縁というか、この三人が揃いも揃って、カナダ随一の気骨人間で、私が愛してやまないコリー・ハートの「BANG!」や「ATTITUDE&VIRTUE」といったアルバムに参加していることが、不思議でたまらない。「音、すなわち人なり」と考えれば、音楽性を同じくする人々が、同じミュージシャンを望むのは同然のことなのかも知れないけれど---。

 そしてまた、アメリカ南部が生んだ愛すべきミュージック・フリークで、エルヴィス・プレスリーに天啓を受けたというトム・ペティーノバンド、ザ・ハートブレイカーズのメンバーでありアレンジャー、引っぱりダコの人気ミュージシャンであるキーボードのベンモント・テンチが、ロイ・ビタンが参加していない曲では、ロイに代わってキーボードを弾いている。

 「明日の風に身をまかせ」や「ガンジス」のような、どこかのどかでアコースティックな曲に、ドノヴァンやドアーズ、カーラ・ボノフ、ウォーレン・ジヴォン、そして誰よりもジェイムス・テイラーで名を馳せた西海岸随一のベース奏者、リーランド・スクラーが参加しているあたりもさすがだ。

 円高ドル安の今、どんなに豪華なミュージシャンだって、一時間なんぼの世界だろうが、と、冷めた目をして見る人もいるかも知れないけれど、それでは音が違う。このアルバムで聞かれるセッションの、いきなり「人間になりてぇ」で聞かれるテンションの高い曲を聞いていると、これはかなり丁々発止とやり合っただろうな、と想像がつくのだ。

 「そこは違う」と注文を出してみたところで、フォークだってロックだって、口惜しいけれどアメリカからやって来たものだ。しかもロイ・ビタンにしても、ベンモント・ランチにしても、「俺はディランやブルースとやっているんだぜ」と、ひとことで剛を切り捨てることが出来る人達なのだから。

 世界を、歴史を相手にして来た連中というのは、事実デカい。それを良く知って、ガップリと四つに組んでの、おそらくは口に出していえないほどの闘いがあったことだと思う。

 その結果、サウンドとしても内容としても本当に素晴らしいアルバムが出来上がったことに、私は心から敬意を表する。

 感動は人それぞれ、曲それぞれに違うことだと思うが、なんといっても凄いのは、タイトルソングの「Captain of the ship」と「ガンジス」の2曲だ。

 宗教というのとは全く関係なく、この宇宙は私たち生きる物すべてに対して、「生存せよ!」という指令を出している・・・・・・と解釈し、そこに慈悲も無慈悲も含めて、生命の法則と輪廻を生み、仏教を産んだインドを旅して深く感じるところがあり、剛に活仏(いきぼとけ)といわれるチベットの精神的指導者であり、ノーベル平和賞受賞者であるダライ・ダマ14世をつないだ。

 それがひとこと、「会ってこなかったよ」という。「オレ、風呂に入りたかったから、もういい、と思って帰って来た」という。その時は、どう受け止めていいのかを計りかねて絶句したけれど、やがて届けられた「ガンジス」を聞いて、そうだったのかと、剛の気持ちが痛いほど良く解ったのだった。

 インドの旅は、強烈にあなたの心を覗き込み、あなたの想いを秤(はかり)にかける。素晴らしいと感動して、また来たくなるか、もう二度と足を向けないかのどちらかだといわれるけれど、そこにはさらに細かい心情のゆらめきがある。

 私は自分の旅行鞄に、インディー・ジョーンズのような街の風景や、タジ・マハールの風情を土産物と一緒に放り込み、同情を排除することで自分のやましさを押しやり、ダライ・ラマ法王というブランド品に会えたというだけで、ミーハーのように喜んで帰って来たけれど、剛の心の鞄には、そんな絵葉書のような風景も、ブランド品も、もう入り込む余地は無かったのだと思う。

 そんな剛の正直さと誠実さを、そしてデリケートであるがゆえの”照れ”を、人は時として理解できずに憎むのだろう。

 剛が動く。剛が見る。剛が創り、剛が産む。そのプロセスで、私たちファンをも含めて、芸能界はガタガタと動き、ソレソレと騒ぐ。でも、そんなプロセスは、もうどうでもいいことなんだと、その生み出された結果に、私は自分の魂を向けようと思う。そしてただ、ソッと心配しながら、剛の傷口を見やる。

 剛さん、私はあなたの母親にはなれないし、ファンなんてしょせんは、どこまで行っても無責任なものだと自認してもいるけれど、でも確実に、あなたの想い、あなたの優しさ、あなたの誠実、すなわちあなたの命は、言葉とエネルギーのくさびとなって、時代と私たちの骨肉をかすめ、生きる指針や喜びとなり、明日に立ち向かう私たちの背中を叩いて、はげましてくれるのよ。

 見事なアルバムをありがとう。
 苦しい作業だったと思う。
 
 だからこそ、その新しい命を、こうして涙をこぼしながら胸に抱いて、くり返しくり返し、食べるように、呑み込むように、祈る想いで聞いている。いつも言ってうるさいだろうけど、身体にだけは気をつけてね。早死になんかして、女房子供を泣かせないでね。

 1993年9月7日 With Love  湯川れい子


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